2010年4月の日記

 

"水都"大垣のさくら

 
愛知県知立市「よいお産の日」というイベントで講演に呼んでいただき、さくら最高潮の東海道を車窓から楽しみながら行ってきました。この地域の基幹病院で師長さんをされていた助産師さんが助産院を最近開業され、呼んでくださいました。赤ちゃん連れのご家族も多く来場されてなごやかなイベントでした。

そしてその前日は、名古屋から東海道本線で足を伸ばして岐阜県大垣市に行って来ました。この静かな城下町は、私が21歳の時に死んだ父のルーツです。行くと河合さんが大変多いです。都内とは逆に河井さんとか川井さんはあまり見かけず、河合さんです。

父は大垣市郊外の築捨という所に育ち、田んぼの中で、家にあった航空便に張られていたフランス切手の美しさに魅せられて仏文学の道を志し、当時は毎日新聞社の場所にあった東京外語大学に進学して東京の人となったそうです。

父はこの東京外語で「ごんぎつね」を書いた新美南吉氏と親しくなり、父の死後、新美さんから父への書簡が多数見つかり、大阪の児童文学館に寄贈されました。築捨の家のお蔵にあったのです。最近、この書簡が、新美さんの故郷・愛知県半田市にある新美南吉記念館に移されることになると聞きました。大阪が財政立て直しのために児童文学館を縮小するためで、ありがたい決定をしてくださいました。

そんな知らせを受け取った矢先でしたし、春休みなので末の娘も連れて大垣に墓参に行ってきました。私はひとりっ子なので、たまにこんなこともしておかないと、子どもたちは自分のルーツがまったくわからなくなってしまいます。

かく言う私も、父が生まれ育ち、叔父がお蔵で書簡を発見したという家が築捨のどこにあるのかわかりません。叔父も亡くなってしまいました。父系統は二代続きの高齢出産で子どもの数も多くなく、私が古い話に興味を持つ前にみんないなくなってしまった感じです。

しかし、過去は必ず時間が押し流していくものです。大垣の人のメンタリティには、それが特に色濃くあるように思います。

大垣のシンボル、それはすべてを流すもの、水です。古くから湧水が豊富な町で、今も市は湧水を大切に整備していてたくさんの人がペットボトルに水を汲みに来る神社もあります。また、ここは古くから水路が発達して東の国、西の国が交わる交通の要所でもありました。

その一方では川がたびたび氾濫し、築いてきたものすべてを失う経験をしてきた町でもあります。大洪水では、お墓も流されてしまうそうです。だから「固執」をしないのです。仏教の盛んな所でもあり、父にも諸行無常の哲学は明確にありました。

私はお産でも「自然か医療か」というようにひとつの見方に100%浸って満足することは決してできないのですが、大垣に来てみると、そんな自分の考え方は、この、めったに来ない町の歴史と遠くからつながっている気がします。

大垣で過ごしたこの一日、さくらが最高の見頃でした。水路を覆うように続くさくら並木を散歩しました。柳の新芽も美しくて、素晴らしい一日でした。

<写真> 汽車の時代になるまで、この水路はたくさんの船が行き交い城下町は活況を呈しました。今も港の灯台は残り、その下には船が一艘浮かべられています。この港で松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を結び、船に乗って伊勢詣りへ向かったそうです。<>2010/04/03

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