1993〜2002年までの記事は現在準備をしております。
整理ができ次第アップしていきます。

 

お産人探訪・4 奥山三千子さん お産が終わって帰る道は凱旋将軍の気持ち

「助産婦雑誌」1992年12月号 (医学書院)

 年輩の助産師さんは、颯爽と自転車で行く産婆さんの黒いカバンに憧れ、親に懇願して産婆になった人が多いです。奥谷もさんもその年代のひとり。
 満州勤務をスタートに貧しかった日本のベビーブームを自宅出産の介助者として両肩に担いました。度胸が据わっていて、逆子の名人で、医師も怖いお産があると奥山さんを呼んだとか。

 

お産人探訪・2 矢島床子さん 新感覚で現代の自宅出産を実践

「助産婦雑誌」1992年8月号 (医学書院)

東京・国分寺で矢島助産院を営む矢島さんの半生記。

 

お産人探訪・1 瀬井房子さん「道は開ける」の精神で前進

「助産婦雑誌」1992年5月号 (医学書院)

 助産師さんたちの専門誌「助産婦雑誌」の仕事をするようになりました。「お産人」などという言葉を作って連載を開始し、ベテラン助産師さんを中心に半生をじっくり語ってもらいました。瀬井さんは茨城で「美蕾」という助産院を営む助産師さんです。

 

アリス・コイルさん(マタニティ・スイミングの創始者) 水とハーブの優しい力は"自然出産"の心強い見方です!

「ピー・アンド」1991年4月号(小学館)

日本でもすっかり普及したマタニティスイミングですが、オーストリアの海で水と育ったこの助産師さんがとある水泳教師と出会ったコラボレーションから生まれたのです。ロンドンで自宅出産をしている開業助産師さんでした。

 

イギリス発 オランダ発 アメリカ発 "自由出産"の波が世界で巻き起こっています あなたのには自分で生む力が備わっています

「ピー・アンド」1991年2月号(小学館)

 この前年には神戸で助産師さんの大きな国際会議があり、世界中のオピニオンリーダーに下手な英語でインタビューしまくりました。
 中でも「自分のお産はまったく自由で何も約束事はないけれど、ただひとつ、生まれたら母親が自分の手で赤ちゃんを拾い上げてもらうこと」「私が何もしないほど、母親が得るのもは大きい」と言った英国の助産師・ニッキー・リープさんにしびれたものです。子育てでもそうですが、人が成長のできる体験を余計な手出しをして取り上げるほど、本人がかわいそうなことはないのですね。

 

アメリカの知恵 清水ルイーズさんが読むアメリカの出産と育児の本 第4回 ブラッドリー法には、よりよい立ち会い出産へのヒントがあります

「ピー・アンド」1988年11月号(小学館)


 

アメリカの知恵 清水ルイーズさんが読むアメリカの出産と育児の本 第2回 「帝王切開になります」と宣告されても自分で産むんだと言う気持ちを忘れないでください

「ピー・アンド」1988年(小学館)

 

アメリカの知恵 清水ルイーズさんが読むアメリカの出産と育児の本 第1回 夫の抱擁とキスが子宮の収縮を促し、出産の進行を早める

「ピー・アンド」1988年8月号(小学館)

 出産観の基盤をかためた連載でした。初回にとりあげたのは60年代米国の反体制文化が生んだ出産文化を代表する本"Spiritual Midwifery"。イナ・メイ・ギャスキンという有名なヒッピー産婆さんの著書でした。
 性的な刺激で陣痛促進効果を上げたり、陣痛を"rush"(ウワーッ、ウワーッとほとばしる感じ)と呼んだり、目から鱗が落ちまくり。英語ではふつう陣痛はpain(そのまんまです)labor(お仕事?)contraction(収縮‥‥コレ最悪です)‥‥などと言います。

 

"お産の人類学者"キッツィンガーさんの主張は、自らの出産体験も生かして、ラマーズ法をも厳しく批判してしまいます。

「ピー・アンド」1988年5月号(小学館)

オックスフォードの文化人類学者としてイギリスの出産風景を塗り替えた女性・キッツィンガー女史。初来日したときの講演とインタビューをもとに構成。6年後に、この方をREBORN主催のいいお産の日第一回のメインスピーカーとしてお迎えしました。

 

出産ドキュメント・自宅で産む「助産婦さんの知恵には"安心"がいっぱいです」

「ピー・アンド」1987年11月号(小学館)

 私を出産ライターにしてしまった記事です。下北半島の恐山の見える町に生きた産婆・赤羽チヤさん。今でも写真を見ると胸が震えます。その感動は、どこで産むとか、薬を使わないで産むとか、そんなことではなかったんだと思います。
 産婆という人が生きて機能する共同体の最後の光を見せて頂きました。夜中に偶然飛び込んだお産を見せて頂き、昼には他の赤ちゃんの沐浴へ同行したのですが、その町ではドアをあけると近所の女性と子供がズラーリ並んで待っているのです。みんな赤ちゃんを見るのが大好きなので老いも若きも集まっていたのです。産婆さんは「お産婆さま」と呼ばれて、離婚の危機などあれば真っ先に相談に行く人でした。
 東京で核家族の集まる団地に育った私は、こうした共同体の地域力、家族力を初めて見て、そこに感動したのかもしれません。この取材体験はとても強烈だったので、今また書いてみるべきかもしれません。
 取材させて頂いた赤羽さんは、このあとまもなく亡くなられ、あの町も産婆のいない町になりました。人の出会いは偶然ではないそうですが、私もそう思います。