ヒストリー


My Histry


20120117mukasi2私は1959年、東京都に生まれました。世田谷区の太子堂という町で、目の前には国立小児病院という現在の国立成育医療研究センターの前身となる病院がそびえていました。

私が生まれたとき、父親は44歳・編集者。そして母親は34歳・結核の研究者でした。この初産年齢は、当時としてはかなり遅いほうです。

母は大正14年生まれで敗戦の年に二十歳だった人で、女性参政権ができた第一回の選挙に自分の母親、つまり私の祖母と一緒に身なりを整えて行ったそうです。この祖母は京都の人でしたが高名な日本画家に師事することが決まったとたんに東京へ嫁がされ、生まれた女の子4人には「夫の付属物であってはならない」と教育しました。

そうして育った母は、結婚後も子どもは持たず、キャリアを追及すると決めていました。ところが、太子堂の真新しい公団住宅に入ると、母は、その明るい窓辺で赤ちゃんをひなたぼっこさせてみたいという誘惑に駆られました。そして、ついうっかりと、私を産んでしまいました。

保育園も産休もほとんどない時代で、母は保育園を作る運動もしましたが実ることはなく、毎日出勤するために、祖母、叔母、叔父、雇用した女性、ご近所などありとあらゆる人を頼って私を預けました。私が,子どもを産む性としての女性に強い関心を持った理由はいくつかありますが、このような育ち方をしたことは大きかったと思います。

女性は女性である前に人間ですが、ひとたび子どもを持つとそうは言っていられません。子どもの目から見ても、私は明らかに母の人生のお荷物でした。しかし、子どもを産む人が誰もいなくなったら人間は絶えてしまいます。さて、どうしたものか?  私は物心ついたころから、そんなことばかり考えていました。

書くことは、小学生時代に朝礼でいきなり校長先生に朝礼台へ上げられ、作文をほめてもらったことから、なんとなく自分がやることは書くことだと思い始めました。これは朝礼が長すぎて貧血を起こし、意識が薄れていく経過を書いたものです。ですから、今思うと、そういう作文をほめた校長先生は変わった方です。

写真を始めたのは、父からハーフサイズカメラの「オリンパス・ペン」をプレゼントされたことがきっかけです。父からのプレゼントはいつも筆記用具だったのですが、たまには変わったペンもいいと思ったのかしれません。

子どもをもつことを考え始めた最初のきっかけは、オリンパス・ペンをくれた、その父との死別でした。大学生の頃、昏睡状態の父を見守っていた時、初めてゆっくりと見た父の指先が私とまったく同じ形をしていることに気づいたのです。まもなくいなくなってしまう父が実は自分の中に続いていることがわかり、私は自分の手の中には目に見えないバトンがあることを知りました。母は仕事が休めなかったので、私は、二十歳で半年のあいだ親の介護を経験しました。

父の死後は音楽カメラマンの仕事が増え、私は80年代ニューウェイブ全盛時代の『宝島』などで写真の仕事に追われるようになりました。一見妊娠とは無関係なこの世界で、私は、妊娠中の女性ミュージシャンに大きな影響を受けました。特に妊娠中を取材したシーナ&ザ・ロケッツのシーナとサザンオールスターズの原由子さん2人が漂わせていた幸福感は、それまで私が見たことがないものでとても惹かれました。

ただ、実際に自分が経験した妊娠、出産、そして子育ては、頭の中が疑問でいっぱいになるものだったのです。

私は26歳で母親となり、しばらく子育てに専念したのですが、それは、朝から晩まで子どものことしかできない日々。夫は夜遅くまで帰ってきません。私は、子どもとひきかえに、ひとりの大人として生きる社会を失ってしまいました。

母乳も、出産した病院は産後3日目まで母子別室制。やがて、病院で言われたことと反対のことをすればするほど上手くいくことがわかってくると、私はしだいに世の育児書が本当に母と子のために書かれているわけではなく、誰かの都合や勘違いに満ちていることに気がつきはじめました。

最初に「明らかにまちがいだ」と気づいたのは、母乳育児の指導です。私は、もう育児書や「かくあるべき」と世間で思われていることは全部投げ捨てることにして、自分の足で、自分が納得できる出産や子育てを探しに行くことにしました。子どもが1歳になるころです。私は、この時にジャーナリストになったのだと思います。

このように、私の出産ジャーナリスト人生は始まりました。

これ以降のことは、以下でご覧下さい。

私は、もう約30年もお産の取材をしてきたことになりますが、大切にしたいことはまったく変わっていません。それは、女性が自分を信じられること、自分で感じ、考えて行動することを応援するということです。

 

 

 


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1986年

第1子出産。育児に専念するも、公園くらいしか行くところのない子育てに疑問が湧く。「お産も子育ても、私がしていることは何かおかしい」都会育児の閉塞感に窒息しそうになって、まったく違う出産・育児を見に行きたいと強く感じる。

1987年

『ピー・アンド』(小学館)編集長だった島本脩二氏に育児の1年間に感じてきたことを聞いてもらい、青森県下北半島の企画を持ち込んで行かせていただく。このとき伝統的な家庭出産に立ち会った衝撃が出産・育児を専門とするきっかけとなる。

帰京後、出産を専門とする英国の社会人類学者シーラ・キッツィンガーの講演会を取材。その開演前のひととき、米国人バースエデュケーターの清水ルイーズ氏と偶然同じテーブルでコーヒーを飲み、意気投合する。

1988年

清水ルイーズ氏から「家族中心の出産 Family Centered Childbirth」という基本概念をじっくり学び、『ピー・アンド』にコラム「アメリカの知恵-清水ルイーズさんが読むアメリカの出産と育児の本」を連載。約半年間、日本の30年先を行っていた欧米の出産・育児支援について解説する。

1989年

第2子出産。「アメリカの知恵」で紹介し大反響があったイメジェリー(イメージトレーニング)の本『お産のイメジェリー-心の出産準備』(メディカ出版)を自分の出産で活用し、効果を実感したので産後に翻訳。東京・杉並区のファン助産院でイメジェリークラスの開講を提案していただき、開始。

1993年

米国西海岸、カナダで出産施設や家族カウンセラーなどを訪ねる。きくちさかえ氏と、産む人と医療者をつなぐネットワーク「REBORN」を創設し、ニュースレター「REBORN」を創刊。

1994年

REBORNが創刊1周年を記念して第一回「いいお産の日」を開催。

1995年

第二回「いいお産の日」もREBORN主催で開催。疑似分娩室を企画し、現役産科医、助産師による模擬分娩をおこなう。米国東海岸に取材し、出産施設、ドゥーラ(出産に終始つきそう専門家)などを訪ねる。

1996年

第3子出産。分娩台を使わない出産のアクティブバースを「フリースタイル出産」と呼び始め、日本での普及を願って全国初の「フリースタイル出産ワークショップ」を助産師ネットワークJIMONと共同で連続開催。初めて仕事としてビデオカメラを回し「もっと自由な出産を」(三輪書店)を構成する。

1997年

『出産革命のヒロインたち-アメリカのお産が変わったとき』(メディカ出版)翻訳。

1999年

全国の出産施設に実績の詳細な情報公開を呼びかけた『REBORN産院リスト1999-2000年版』を出版 。

2000年

『お産選びマニュアル-いま、赤ちゃんを産むなら』(農文協)出版。REBORNメーリングリストを「お産のお鍋」と名付け、開通(現在会員は医療者中心に約700名)。REBORNのウェブサイトをオープンし、「REBORN産院リスト」をウェブ上に公開。

2002年

『WHO勧告に見る望ましい周産期ケアとその根拠』(メディカ出版)翻訳。テレビ朝日「テレ面たりー」で日々の仕事が30分間のドキュメンタリー番組になる。

2003年

『アエラ』(朝日新聞社)不妊治療最前線シリーズで全国の体外受精施設300余りの調査に関わる。不妊、高齢出産について初めて本格的に取材したのがこの企画。REBORNの紙媒体「紙REBORN」を創刊する。「All About出産医療・産院選び」ガイドとなる。

2004年

毎日新聞連載「産院革命」を書く。 夏、北海道大雪山で開かれた文化としてのリプロダクション研究会国際シンポジウムで「帝王切開を好む女性たちー日本の状況」を発表。ここで出会ったドイツ人人類学者ガブリエル・ホルゾック・シュレイダーさんにアマゾンに住むヤノマミ族の出産についてにインタヴューし翌年「助産雑誌」に発表。人間の出産の原初的な姿に振れて大きな衝撃を受けた。

2005年

REBORNスタッフ日記「自然体日記」を始める。『妊婦の「ぷ」』(小学館)でコラム担当。REBORNで生物学者の本川達夫氏に「少子化を生物学の目で斬る」というテーマでインタヴュー。

2006年

『未妊-「産む」と決められない』(NHK出版)出版。出産開始年齢が自然の状態から10~20年もずれつつ「産みたい、でも今ではない」と思い続けてしまう状態を「未妊」と名づけた。『クレア』(文藝春秋社)、『インレッド』(宝島社)、『グラマラス』(講談社)、『日経ウーマン』(日経ホームズ)、『クロワッサン』(マガジンハウス)、『ダイム』(小学館)、『スタイル』(講談社)、『noi』(ベネッセコーポレーション)などの女性誌、毎日新聞などで多くの特集記事、著者インタビューを企画していただいた。

産科医不足の問題についても取材や新聞へのコメントをし、問題の全体像を東京新聞サンデー版二面見開き記事に収める協力をし、REBORNや「All About出産医療・産院選び」で看護師内診問題や潜在助産師などについて書く。

秋篠宮妃紀子さまがご出産されたころには、高齢出産、帝王切開、男女産み分け、ブランド病院などのテーマについて執筆やコメントを多数求められた。

TBSテレビ「NEWS23」で助産院の自然出産と病院の無痛分娩を比較した時にコメンテーターをする。11月、国会の参議院「少子高齢社会に関する調査会」の参考人として、未妊という現象について話す。

出産が社会から非常に注目された年だった。

2007年

『AERA with baby』(朝日新聞社)が創刊され、出産ルポや医学知識の記事を書き始める。4月と5月の2ヵ月間、朝日新聞「育児ファイル」でコラム「お産を選ぶ」を連載。

『助産師と産む-病院でも、助産院でも、自宅でも』岩波ブックレットNo.704(岩波書店)出版。『未妊』『助産師と産む』いずれかのテーマで講演をする機会が増える。

2008年

妊娠・出産サイトの老舗「ベビカム」の多大な協力を得て、「産科医不足と妊婦健診をめぐる実感調査 1100人の妊婦・母親の声」を実施。「お産難民」問題でTV番組、ラジオにたびたび出演する。

静岡県立医療大学の講師を始める。助産師対象の専門誌『助産雑誌』(医学書院)で院内助産院、助産師外来の訪問ルポ「チャレンジ!自立と責任」の連載開始。毎月、先駆的な病院を訪ね助産師、産科医、妊婦さん、そして事務職の方や院長にも取材。

日本看護協会の院内助産システム推進プロジェクト委員に就任。

プライベートでは春から夏にかけて同居していた実母の介護があり、夏の終わりに送ることになった。母子出会いである出産をやってきた私がその別れについて考えた年。老人医療や看取りの問題に直面し、命果てる場としての医療にも目が向く。都立墨東病院の事件の影響、そして医療と命の問題に心が向いたこともあって、秋よりNICU(新生児集中治療管理室)の取材を始める。

信田さよ子さんの本の編集者と仕事をしていたこともあり、母娘の共依存についても信田さんに取材し、学ぶ。

2009年

『安全なお産、安心なお産-「つながり」で築く、壊れない医療』(岩波書店より10月発売)の取材、執筆に重点をおいた年。57名への取材、資料などにより、不妊治療、産科、新生児医療という一連のつらなりがどのように発展してきたか、発展と共にどんな問題を生んできたかを綴った。

7月には湘南鎌倉総合病院副院長・井上裕美医師らとの共著『「なっとく出産」応援事典』(春秋社)発売。日本母性衛生学会50周年記念論文審査委員を務める。聖路加看護大学大学院の講師を始める。

2010年

高齢出産をテーマにした文春新書の取材で、体験者や現場の声を本格的に集め始める。野田聖子議員の卵子提供による妊娠もあり、社会全体も高齢出産、それも50歳前後の「アラフィフ出産」に関心が高まる。新聞、週刊誌などから出産と年齢についてコメントを求められることが多かった。また、産んだら、もう元気で長生きするしかないということで「AERA with Baby」(朝日新聞出版)に、子宮頸がん検診やアンチエイジングの記事を書く。

超音波による胎児診断で重い病気を告知されたご夫婦が妊娠継続を選んだ記録『きみにあいたい』(講談社文庫)の解説を書く。

出産後に母子が素肌であたためあう「カンガルーケア」の最中に赤ちゃんが異変を起こす事故が続き、その背景を取材してREBORNで講演会も開催。

出産恐怖の強い女性が増えていることを受けて、「クレア」(文藝春秋社)やシンポジウムで硬膜外麻酔(無痛分娩)に関する仕事もする。

2011年

硬膜外麻酔(無痛分娩)についてのインターネット調査をベビカムと共同で実施し、283人の陣痛体験を集計。

4月よりNHKラジオ第1放送「ラジオビタミン」の生放送スタジオに毎月(第1金曜日)うかがうことになる。初回は東日本大震災の直後に生まれた赤ちゃんのことや、停電下での出産について。

震災の影響で、首都圏も出産施設、不妊治療施設はがらがらになった年。その一方で独身女性の間には家庭志向が強まり「妊活」「震災婚」ブームも。仕事の大半は妊活ものになり、高齢出産についての文春新書に取り組み続ける。

クリスマスにツイッターを始める。

2012年

助産所の安全管理やサービスについての第三者評価組織「特定非営利活動法人日本助産機構」の評価委員になる。

文春新書の執筆に明け暮れる。雑誌の仕事も不妊症、妊活ものが大半を占め、男性不妊についても二度に渡り取材。母体血中の胎児DNAを調べる新しい出生前診断についても取材し、ベビカムと共同で母親のニーズ調査も実施。11月「日本母性衛生学会」の特別講演「晩産時代が今、求めるもの」の演者をつとめる。

2013年

3月、3年超の年月をかけた『卵子老化の真実』(文春新書)発売され、講演、TV出演など執筆以外の仕事も多かった1年。 『卵子老化の真実』は中国、韓国の出版社からも翻訳版のオファーを受けて承諾。「プレジデントオンライン」でも関連記事の連載開始。連載コラム「いつ産みますか?妊娠力のきほん」が共同通信で配信され、全国18の新聞に掲載される。

『助産雑誌』編集部と共に少子化対策について約千名の生の声を集める。ベネッセコーポレーションの子どもがいない男女千名への調査、妊娠・出産年齢についての社内研修に協力。

2014年

出生前診断、胎児医療についての朝日新書『出生前診断ー出産ジャーナリストが見つめた現状と未来』の取材と執筆に多くの時間を費やす。

『卵子老化の真実』関連の講演活動も多く、地方に呼んでいただく度に少子化、晩産化、そして産科医不足が全国的に深刻化していることを感じる。国の少子化対策に動きが出てきたこともあり、『助産雑誌』(医学書院)と「かんかん(ウェブ・マガジン)」で「やっぱり知りたい少子化のはなし」連載を開始。

2015年

出生前診断の問題に夢中で取り組む。4月、日本産科婦人科学会 第67回学術講演会生涯研修プログラム「遺伝カウンセリングのあり方」で講演。『出生前診断ー出産ジャーナリストが見つめた現状と未来』(朝日新書)を上梓。9月、放送大学「心理臨床と病」にゲスト出演し生殖医療、出生前診断について解説。講師の臨床心理士・橋本洋子氏に多くを学んだ。そして12月、『學鐙』(丸善)で出生前診断について随筆を執筆し、ようやくこのテーマについての結論が自分の中で落ちる。

6月、NHKラジオ放送第1「午後のまりやーじゅ」で出産ジャーナリストとなったいきさつ、出生前診断について1時間30分のトーク。

7月、ICMアジア太平洋地域会議・助産学術集会で横浜市次世代育成事業として「これからの日本で子どもを産むということ」をテーマに十代向けの市民講座を行い横浜市内の中学校すべてでちらしが配布され800人が来場。

同月『ひとびとの精神史第三巻』(岩波書店)で昭和の代表的な育児書『育児の百科』著者・松田道雄について人物史を執筆。

年末、写真撮影を再開することを決心し、自身が出産した助産院に通い、妊娠・出産の現場を撮り始める。

2016年

1月、妊婦さんや赤ちゃんの写真を早速活用して富山県滑川市立早月中学校で「産み時」について全校授業。

5月、『出生前診断−出産ジャーナリストが見つめた現状と未来』で「科学ジャーナリスト賞2016」を受賞し、記者クラブの受賞式に行く。

7月、顕微授精の第一人者である浅田義正医師との共著で『不妊治療を考えたら読む本』(講談社ブルーバックス)を上梓。これ以降、この年は女性サイト「ウートピ」の十回連載「不妊治療のウソ・ホント」、「東洋経済オンライン」記事、不妊カウンセリング学会の講演「ジャーナリストから見た不妊治療」など不妊関連の仕事が特に多かった。

日本赤十字社医療センターで手術室、検査部門など病院全体のさまざまな風景を撮影し、スライドショーを作成して病院開設130周年記念イベント会場にて上映。

2017年

ウェブ上の写真ギャラリーを開設。

現在に至る。

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